石田三成が『茶坊主』と呼ばれていた理由

戦国時代の武将『石田三成』。

彼は羽柴秀吉に仕え、生涯豊臣家を守るために奔走した武将です。

後に豊臣政権の五奉行に就くほどの偉い人です。

石田三成は秀吉から『茶坊主』の愛称で親しまれました。

この『茶坊主』というあだ名がつくきっかけとなった、『三献の茶』という逸話をご紹介します。

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三成と秀吉の出会い『三献の茶』

天正2年(1574年)頃、秀吉君は、信長さんから長浜城の城主に任命されとてもいい気分でした。

出世して、ついには城持ち! 良いことばかりの毎日!

城持ち大名らしく鷹狩に出かけます。

鷹狩の成果もまずまず!

秀吉君はスキップで城に戻ります。

♪ ♪ ♪

、、、♪ ♪

、、、。。。

歩きと違ってスキップは疲れます、、、。

喉も乾いてきました、、、。

秀吉君は、近くにあったお寺でお茶を頂く事にしました。

そこで出てきたお茶はとてもぬるいお茶でした。

秀吉君は喉が渇いていたので一気に飲み干しました。

秀吉君
「ぷわぁ~! 生き返ったみてぇだがや!」

秀吉君は喉の渇きは潤されましたが、もう少し何か飲みたい気分です。

そこへ、もう一杯お茶が運ばれてきました。

運ばれてきたのは少し温かいお茶でした。

先程の飲みっぷり程ではありませんでしたが、秀吉君はそのお茶も飲み干しました。

秀吉君
「わしの鷹狩はなかなか見事じゃったろが?」

一息ついたのか、秀吉君は家来に鷹狩の自慢話を始めています。

そこへ、さらにお茶が運ばれてきました。

今度は熱いお茶です。

秀吉君
「いやぁ~。ホッとするのぉ~。」

お茶の味を楽しみながら、しんみり飲んでいるうちに、秀吉君の疲れは吹き飛んでいました。

ここで秀吉君は気付きます。

先までのお茶の温度の変化、、、。少し不自然、、、。

秀吉君が尋ねると、お茶を入れていたのは『石田三成』という男だといいます。

秀吉君は『石田三成』に尋ねました。

秀吉君
「先までの茶はおみゃ~がたてたんけ?」

三成君
「左様でございます。」

秀吉君
「でりゃ~気の利いた茶の出し方じゃった。茶のぬくとさのちげぇはなんじゃったんじゃ?」

三成君
「秀吉様は鷹狩でたいそうハッスルされた上にスキップで帰って来られました。格別に喉が渇いておられると察し、グビッ!っと一気飲みされるであろうと考えてお出しした所存。」

秀吉君
「・ ・ ・」

三成君
「続く二杯目は、喉の渇きも少し潤い、流石にもう一気飲みはしないと考えて出しした所存でござる。」

秀吉君
「・ ・ ・ ・ ・ ・」

三成君
「最後の三杯目は、秀吉様にお茶の味を楽しんで頂けるよう、丹精込めてたてたお茶でござる。」

秀吉君
「   (・□・;) ほぉ~。  」

秀吉君は三成君の気の利きように度肝を抜かれました。

三成君のように気が利く人間がいつも近くに居てくれたら、、、。

秀吉君
「これからも、わしの傍でおみゃ~のその気配りを発揮してちょ~。」

こうして、石田三成は秀吉の小姓として仕えることになりました。

この話は逸話で、事実だったかは定かではありませんが、『石田光成』はたいへん頭のきれる男で、秀吉から気に入られていた事は確かです。

石田三成は頭のきれる男でしたが、人付き合いが不器用でもありました。

秀吉の死後、その不器用さがあだとなって孤立し、関ケ原の戦いの際は仲間の裏切りによって敗北に追いやられてしまいます。

頭は良いけど不器用。そして生涯仕えた主君は秀吉ただ一人。 カッコいい武将ですよね。

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