皆さんこんにちは。
「テスト勉強してる?」
「してないよ~、、、。 ニヤり」を、鵜呑みにし続けてきた当サイト管理人です。
受験に出世競争。
今の世の中も人の上に立つためには時には騙すことも必要!?
歴史上でも生きるため、お家を守るためにいくつもの裏切り行為が起きています。
今回は、戦国時代の武将による裏切り行為を紹介していきます。
小早川秀秋 (こばやかわ ひであき)
お一人目は、戦国時代後期の武将「小早川秀秋」です。

小早川秀秋 出典:Wikipedia
「裏切り者」と聞いて僕が一番先に思い浮かぶのが、
小早川秀秋。(通称 ひであっき~ 少なくとも僕はそう呼んでいる)
『関ヶ原の戦い』で西軍を裏切る暴挙に出て、
「石田三成」率いる西軍を敗北させる大きな要因となりました。
暴挙に出た原因は「徳川家康」の調略。
当時19歳だったひであっき~は家康に逆らえず家康の口車に乗ってしましいます。
ひであっき~の裏切りにより、
他にも家康から調略されていた武将たち(脇坂安治・小川裕忠・朽木元網・赤座直保)も一斉に家康に寝返ります。
これにより、2万近い兵が家康の東軍に寝返ることとなり、
形成は一気に東軍有利に傾き、両陣合わせて20万もの大群で衝突した『関ケ原の合戦』はわずか半日で決着。
東軍勝利で幕を閉じます。
西軍の方が地理的に、戦況的に有利な状況にありました。
ひであっき~の裏切りがなかったら西軍が勝利し、家康を打ち取っていたかもしれません。
そうなれば、もしかすると今の日本の政治の中心は東京ではなく大阪や京都だったかもしれません。
前田利家 (まえだ としいえ)
“かっこいい武将” としてよく知られている「前田利家」ですが、
『賤ケ岳の戦い』で恩志、柴田勝家を裏切っています。

前田利家 出典:Wikipedia
前田利家は古くから与力として柴田勝家に仕え勝家からの信頼も厚いものでした。
また、勝家には命を救われていたこともあります。
『笄斬り事件』では「織田信長」に仕える「拾阿弥」(じゅうあみ)が利家の家宝であった笄(こうがい)(笄とは髷を結うための道具)を盗んだとして、
信長の目の前で拾阿弥を切り殺しています。
普通なら死罪ものの大事件ですが、柴田勝家の必至のとりなしによって死罪を免れています。
柴田勝家に可愛いがられていた前田利家ですが、
信長が死んでからの勝家と秀吉の対立から始まった『賤ケ岳の戦い』でやらかしました。
柴田軍3万の内、5,000もの兵を任されていたにもかかわらず突如撤退してしまいます。
柴田勝家の重臣である前田利家の撤退を見て、
次々と他の武将たちも撤退してしまい柴田軍は総崩れとなり、柴田軍は敗北してしまします。
勝家はこのいくさで自害しています。
賤ケ岳の戦いでの前田利家の撤退についてはよくわかっていませんが、戦国の世で生き抜くもっとも賢い方法である、
『より強い者に従う』生き方を選択したとする説が通説です。
前田利家と言えば主君に忠実な男気溢れる武将というイメージがありますが、実は根性なしの凡人だったのかもしれないですね。
※因みに、
現在の『東京大学』は前田家の屋敷の敷地内にあり、
「赤門」は前田家の屋敷の門でした。
松永久秀 (まつなが ひさひで)
戦国一のヤンキーと言えば、「松永久秀」といって過言ではないでしょう。

松永久秀 出典:Wikipedia
「織田信長」に仕えていた頃、二度も信長を裏切ります。
一度目、
1572年 『金ヶ崎の戦い』で共に戦った「織田信長」に対し謀反をおこします。(第二次信長包囲網に乗っかった形)
、、、が
この時あっけなく鎮圧されてしまいます。
しかし、信長からは謀反の罪を咎められていません。
二度目、
一度目に謀反しときながら許してもらった御恩も忘れ、謀反から五年後の1577年に、ヤンキー久秀はまたやらかします。
本願寺を包囲して本願寺攻めを行っていた「織田信長」。
信長から包囲の砦一角を任されていた久秀でしたが、包囲の砦を突如、焼き払い撤退し、信貴山城(しぎさんじょう)に立て籠りました。『信貴山城の戦い』
信長からしてみれば完全に意味不明な行動。
使者を送ってもなかなか取り次いでもらえず、茶器コレクターだった信長が、
「茶釜・古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)を渡せば全て許す」と伝えた際も、
「平蜘蛛も俺も二度と信長には合わない!」
と言い残し、信貴山城天守に火を放ち、平蜘蛛釜をたたき割り自害しています。
(平蜘蛛釜に火薬を詰め爆死したとも伝わります)←まさにヤンキー
ヤンキー久秀のヤンキーっぷりは裏切り行為以外にもあります。
1565年には室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)を殺害しています。『永禄の変』
将軍とは、現代でいうところの総理大臣。当時はそれ以上に権力をもっていた役職。
二年後の1567年に起こった『東大寺大仏殿の戦い』では、
東大寺の寺院・大仏を焼き払うという罰当たりな所業をしています。
罰当たりと言えば、信長の『比叡山焼き討ち』が頭に浮かびますが、
ヤンキー久秀はその6年も前に罰当たり行為をしていたのです。
苦肉にも、松永久秀が自害した日は東大寺大仏を焼き払った日と同じ日でした。
因みに、
残忍な武将というイメージの強い織田信長。
久秀の裏切りを二度も許そうとしていたことからも伺えますが、
実は結構、寛容で、浅井長政攻めや本願寺攻めの時も総攻撃の前にまずは降伏を勧告しています。
斎藤道三 (さいとう どうさん)
悪名高い武将としてイメージされている「斎藤道三」

斎藤道三 出典:Wikipedia
実際、結構なワルです。
下剋上でのし上がってきた武将なので、自分のためなら何でもします。
1527年、美濃守護の「土岐頼芸」の兄を追放。
(「土岐頼芸」を家督争いで勝たせたかったから)
1533年、商人だった自分を拾ってくれた恩師でもある主君「長井長弘」を殺害。(美濃国の守護大名「土岐頼芸」に気に入られたかったから)
1541年、美濃国の守護大名「土岐頼芸」の弟を毒殺。
慕っていた「土岐頼芸」も追放。(美濃国が欲しかったから)
自分がのし上がるために自分の上司を必至に持ち上げ、上がったところで突き落とす。
結果、商人だった道三は美濃国の大名にまでのし上がりました。
しかし、その生涯の最後は息子の裏切りによって幕を閉じます。
明智光秀 (あけち みつひで)
「敵のおわすは本能寺にて御座候!」

明智光秀 出典:Wikipedia
天下統一間近だった「織田信長」に謀反し『本能寺の変』を起こし、織田家を滅ぼすきっかけを作ったのが「明智光秀」。
本能寺の変によって信長・信忠と滅ぼし、事実上天下人となった光秀ですが、中国大返しで京まで飛んできた「羽柴秀吉」の猛攻を受け、
天下人となってわずか11日後に自害します。
謀反の理由は色んな説がありますね。
- 単純に信長に恨みを持っていた
- 信長がコワかった(今の地位を維持できなくなる可能性を感じた)
- 毛利征伐を秀吉の“与力”として出陣させられた(プライドズタボロ)
- 徳川家康のご馳走役(饗応役)を任された時。
十分に準備しこれ以上ない膳を出したのに、信長にけちょんけちょんに言われた - 領地没収すると信長にいわれた
などなど。
事実は明智光秀のみぞ知る!
ドロドロした内容が好きな僕もひとつ仮説を立ててみます。
信長暗殺は羽柴秀吉と明智光秀が企てたもので、
信長暗殺後、秀吉と合流、または挟撃で京・大坂を平定するという作戦だった。
しかし、ずるがしこい秀吉の裏切りで打ち取られてしまい、
秀吉の天下取りの土台作りをしたに過ぎなくなってしまった。
というもの。
おもしろくないですか?
あなたは誰かに裏切られたことはありますか?
絶対に裏切られないと言い切れる親友というのは一人二人いれば十分。
友達は量より質だと気づき始めた30歳すぎた管理人でした。