戦国時代後期に活躍した武将の一人に、【真田幸村(信繁)】がいます。
真田幸村は“大坂の陣”にて、あの徳川家康を、切腹寸前まで追いつめた事でも有名です。
真田幸村はその“大坂の陣”で槍に突かれその生涯を終えます。
猛将、真田幸村を打ち取ったのはどんな人物だったのでしょうか。
西尾仁左衛門宗次
真田幸村を打ち取ったのは【西尾仁左衛門宗次】(にしお じんざえもん むねつぐ)という人物です。
西尾宗次は大坂の陣の際、“松平家”のもとで鉄砲組頭として従軍していました。
真田幸村を打ち取った事で、所領700石から1800石へと加増され大出世を遂げています。
真田幸村の最後
幸村が討死する“大阪夏の陣”は、勝つ見込みがほとんどない追い詰められていた戦いでした。
豊臣方は懸命に策を立てますが、失敗に終わります。
豊臣方の策とは、まず、“真田隊”、“毛利隊”を四天王寺、茶臼山付近に布陣して、射撃戦と突撃を繰り返して敵を混乱させます。
そして、家康の本陣を孤立させた上で、合図と共に待機させておいた“明石隊”が家康本陣を急襲・横撃する。
というものでした。
しかし、作戦が始まる前に敵方の“本多忠朝隊” が “毛利隊”の前衛に向けて発砲し、射撃戦を始めてしまいます。
“毛利隊”もそれに反応してしまい正面からぶつかり合う激しい戦闘になってしまい作戦は失敗に終わりました。
参考 : Wikipedia
幸村は死を覚悟し、敵軍の本陣めがけて強硬突破します。
まず、幸村は敵軍後方部隊の“浅野 長晟(あさの ながあきら)”が裏切った。との虚報を流し、敵軍を混乱させます。
(後方部隊が裏切るという事は、挟み撃ちにされるという事になり、徳川軍からすれば最悪の状況)
敵が混乱し、陣形が崩れている隙を狙い家康本陣めがけて強襲しました。
しかし、ギリギリの所で敵軍にはばかられ、後退を余儀なくされます。
(本陣の目と鼻の先まで攻め込まれ、本陣の馬印を鉄砲で打ち抜かれた家康は切腹を覚悟したと伝わります)
(※馬印とは総大将や侍大将の目印として置いていた旗)
後退した幸村でしたが、深傷を負い“安井神社”で手当・休息していましたが、そこを西尾宗次に発見されてしまいます。
幸村は抵抗することなく、『我が首はそなたの手柄とせよ』と言い残し打ち取られたと伝わります。
幸村を打ち取った西尾宗次ですが、単に手柄を立てるために兜首を狙い戦場を駆け回り、持ち帰った兜首の中に幸村の首があった。という逸話もあります。
また、宗次は幸村を供養するために孝顕寺(福井県)に首塚を造り、地蔵像(通称、真田地蔵)を建立して祀っています。この真田地蔵は現在孝顕寺にはなく、《福井市立郷土歴史博物館》で見ることが出来ます。
僕も一度拝見しましたが、その像からは西尾宗次の幸村に対する敬意を感じ取れました。
皆さんも近くを通りかかった際、もし良かったらご覧になって下さい。