トイレが無くて城が陥落⁉ 戦国時代のトイレ事情

毎日必ず用を足すのは当たり前。

現代でこそ一家に一個以上のトイレが存在し、外出先でもトイレに困ることはありません。

下水施設もままならなかった戦国時代はどうでしょう?

戦国時代ってトイレはあったのでしょうか?

今回は戦国時代のトイレ事情について、そして、トイレ問題が仇となり落城してしまった『七尾城の戦い』をご紹介します。

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武士は『樋箱(ひばこ)

武士のような上流階級の家には現代の“おまる”に近い『樋箱(ひばこ)』と呼ばれる汲み取りトイレがありました。

樋箱 出典:江戸ガイド

蓋を開け、おまるのようにまたがり用を足します。
持ち歩けるので部屋の隅などにおいて使用します。

当然、使用後には臭いも残ります。
そこで、使用した後に砂をかけて臭いを緩和させたりしました。
下部は引き出せるようになっていて排せつ物が溜まったら処分します。

更に、“ぼっとん便所”のような『汲み取り式のトイレ』も登場します。

戦国時代の汲み取り式トイレ 出典:歴史マガジン

こちらは現代のトイレとそこまで変わらず、トイレ専用の部屋が存在し、床に埋め込まれた汲み取りトイレで用を足すことができます。

大名クラスになると、暑い日のトイレ中は専属の家来に仰いでもらいながら用を足し、おしりも拭いてもらっていたそう、、、。
羨ましいとは思いませんが、流石は大名ですね。

庶民は『辻便所(つじべんじょ)

一方、戦国時代の庶民にはまだそこまでトイレが普及していませんでした。

庶民は家にいる時は、『共同の汲み取り式トイレ』で用を足していましたが、外出時には道端で用を足すことはよくある光景でした。

やがて、排せつ物が肥料として役に立つことに注目されると、排せつ物が売買されるようになります。

汲み取り式トイレを設置しているお宅へ排せつ物を買い取り、農家に肥料として売る、『下肥買い(しもごえがい)』という職業もでき、道端には三方を板で囲っただけの『辻便所(つじべんじょ)』というトイレも設置されるようになります。

辻便所 出典:日本下水文化研究会

今でいう公衆トイレのようなものですが、今ほどプライバシーが守れるような設計ではないですし、民家の前もような人通りが多いような個所にも設置されてました。
少し恥ずかしい気もしますが、今まで道端で用を足していた庶民からすればその逆ですね。

トイレが無くて陥落した城『七尾城』

戦国時代、トイレ不足で落城した城があります。
その城の名は『七尾城

1576年~1577年に越後(福井県)の上杉軍が能登(石川県)の畠山(はたけやま)軍の七尾城を攻めた戦を『七尾城の戦い』と言います。

七尾城址 出典:Wikipedia

信長の北陸への勢力拡大をうけて信長との同盟を破棄したことを皮切りに上杉軍が信長の同盟である畠山家の領地を狙った戦です。

戦いは一進一退でしたが、上杉軍の軍勢を前に畠山軍は七尾城まで全軍撤退して籠城のかまえをとります。
籠城となれば当然、兵士だけでなく領民も安全な城に避難させなければなりません。
七尾城は大きな城でしたが、一度に2万人以上の兵士や領民が駆けこんだのでパンパンです。

井戸の水はすぐに枯れてしまい、食料も乏しく皆弱っていきました。
弱った体にとどめを刺したのが、『トイレの問題』です。
多くの兵士や領民の排せつ物の処理が全く間に合わなかったのです。

皆、道端などで用を足すようになり、城内は不衛生極まりない状態になってしまいました。
そして、ついにその不衛生さから疫病が蔓延してしまいました。

兵士たちは戦うことなく次々に疫病で死んでしまい、10歳位だった七尾城城主の畠山 春王丸も疫病で没してしまいます。

そして、城主を失ったことで城内で反乱が起き、内部の裏切り者が上杉軍を城内に招き入れてしまい、あっけなく七尾城は上杉軍の手に落ちてしまったのです。

トイレがない不衛生さが招いた結末とは思えないスケールの大きい結末です。

当たり前のようにあって、当たり前のように排せつ物を処理してくれる現代の水洗トイレ。

良いか悪いかはさておき、本当に便利な世の中になりました。

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